戦国時代は武将同士が家の存続を保つため、また一国の国主となるため数々の戦いが行われてきました。
小さい戦いを含めると数えきれないほどあったでしょう。そんな戦いの中から歴史を変えたほどの大きな戦、もしくは世間的にとても有名な戦を15個簡単に紹介していきたいと思います!
ぜひ最後までご覧になっていってくださいね!☻
Contents
1.応仁の乱 1467年
戦国時代の始まりはこの1467年に起きた応仁の乱です。
室町幕府次期将軍を決めることになるのですが、将軍候補が2人居たのでどちらが将軍となるか対立します。
やがて、この将軍後継者争いは日本全国を巻き込むほど強大なものとなり応仁の乱と呼ばれる大きな戦いが起きたのです。
こうして後継者争いが目的だった戦いが、自分の領地を広めるため、また守るための戦いがこれ以降行われることとなりました。
これが戦国時代ですね!
2.川中島の戦い 1553~1564年
川中島の戦いは越後の大名上杉謙信と、甲斐の大名武田信玄の戦いですね!
当時自分の勢力を広げる為に近隣の大名の領地を侵攻していた所、ある小大名が上杉謙信に「自分の勢力を守ってほしい」と助けを求めたのです!
弱者を守り強者をくじくが主義の謙信は助けに応じ現在の山梨県での戦い、川中島の戦に発展します。
両者戦国最強の男として知られていて二人の戦いは10年以上続き、結局決着はつかず引き分けに終わりました
3.桶狭間の戦い 1560年
織田信長VS今川義元の戦い。
今川義元は当時一番天下に近い男と言われており上洛(京に上る)準備を進めていました。
準備を終え京に向け進軍した義元は道中の尾張の大名織田信長とぶつかることになります。
2万~4万の兵力で進軍していた今川義元にとって織田信長など相手にはならないほどの弱小大名だったのですが、信長の見事な戦略によってたった2000ほどの兵力で今川義元に打ち勝ってしまうのです。
これが世に言う桶狭間の戦いです!
4.三方ヶ原の戦い 1572年
武田信玄VS徳川家康の戦い。
武田信玄は長年上洛を夢見て自分の勢力を広げておりました。
そして、それを実行に移し、京へ進む途中に争った初めの戦いがこの三方ヶ原の戦いです。
2万の兵力を率いていた信玄。家康は武田信玄の上洛を防ぐために8000の兵で城に籠り、迎え撃ちます。
しかし、信玄は家康を無視し悠遊と家康の領地を進軍します。無視された事を怒った家康は城から出て信玄に勝負を挑みますが信玄にコテンパンにやられてしまうのでした。(^^;)
家康は多くの家臣を失いましたが、自身は命からがら逃げ帰ったのです。
5.小谷城の戦い 1573年
織田信長VS浅井長政の戦いです。
浅井長政は信長の妹を正室に迎えており両家は同盟関係にありました。つまり信長にとって長政は義理の弟にあたるのです。
しかし、浅井家は信長を裏切り昔から仲の良かった朝倉義景という大名と手を組むしたことになりました。
もちろん裏切り者を放っておくわけにはいかず、信長は長政の領地に侵攻していきます。最終的に信長によって追い詰められ自分の居城、小谷城にて自刃し果てるのでした…
6.長篠の戦い 1575年
織田信長・徳川家康VS武田勝頼の戦い。
武田信玄が病死し後を継いだのがこの武田勝頼です。
武田家当主となった勝頼は徳川家康の支城、長篠城に1万5千の兵力で攻め込みました。
対する家康は自分では8000の兵力しか集められず、その上兵の質も負けていたため同盟国の信長に援軍を要請します。
これに応じ信長は3万の兵力と鉄砲3000挺を持って援軍として長篠城に駆けつけ武田勝頼を迎え討ちます!
鉄砲をうまく駆使し戦った織田・徳川軍は最強の騎馬軍団と言われた武田家を木端微塵に打ち破った戦い、これが長篠の戦いです!
7.本能寺の変 1582年
ほとんどの方は知っているであろう織田信長が家臣の明智光秀の裏切りにより信長が最期を遂げた戦いです。
本能寺で信長が寝ているところを明智光秀は約1万3000の兵力で攻撃します。対する信長の護衛は100人程度しかおらず、さすがの信長でも勝つことは不可能でした。
さらに不意を突かれたため逃げることもできず、信長はあっけなく最期を遂げることになったのです…
歴史が大きく変わった瞬間ですね。
8.山崎の戦い 1582年
主君の仇をとるため秀吉が明智光秀を討伐した戦いです。
秀吉は他の誰よりも信長が本能寺で討たれたことを知り、真っ先に明智光秀の元へ駆けつけます!
三秀は想定していたよりも味方を増やすことができず、あっさりと秀吉によって敗れてしまうのでした。
過労字で逃げ延びた光秀でしたが、その途中で農民に襲われなくなったといわれております。(^^;)
9.賤ヶ岳の戦い 1583年
羽柴(豊臣)秀吉VS柴田勝家の戦い。
明智光秀を破ったことにより信長の後継者と言われるようになった秀吉。
それをよく思っていなかった人物がいました。
それが織田家の重臣柴田勝家です。
最初、戦いは拮抗していましたが、勝家軍に属していた前田利家が秀吉と仲が良かったことから戦を放棄します。
それからは秀吉有利となり最終的に柴田勝家は追い詰められ自刃し果てるのでした。
結果秀吉に匹敵する相手は世の中で徳川家康ただ一人となったのです。
ここで勝家が勝っていたら天下を取っていたのは柴田勝家だったかもしれませんね。
10.第一次・二次上田合戦 1585年、1600年
徳川家と真田家は深い因縁がありました。
真田家はあの有名な真田幸村がいる家です。
両家が戦った大きな戦は2度。
一度目は1585年真田家の居城上田城に向けて進軍。わずかな兵で徳川兵を打ちのめします。
2度目は1600年の関ヶ原の戦いの時、西軍についた真田家を徳川家が攻撃します。3万8000の兵に対して真田家は2000ほどの兵力しかありませんでしたが時間を稼ぎ関ヶ原の戦いに行くはずだった主力部隊を足止めすることに成功したのです。
真田の人気が高いのも分かりますよね☻
※1600年の第二次上田合戦については順番は前後しましたが紹介させていただきました。
11.九州攻め 1587年
秀吉は天下統一に向けて九州への侵攻を開始します。
その数ざっと20万!!
対する九州勢、中でも薩摩の大名島津家は最初激しく抵抗しますが、最終的には降伏し秀吉は九州を統一することに成功しました。
12.小田原攻め 1590年
九州を統一した豊臣秀吉、東北地方の大名はすぐに降伏してきたため残すところ敵は関東の大大名、北条家のみとなりました。
そこで、秀吉は九州攻めの時と同じく20万の兵力で北条氏の領地に攻め込みます。
最初、北条家は兵糧を蓄え戦に備え徹底抗戦の構えを見せました。
対する秀吉は大群で北条家の居城、小田原城を取り囲み、直接攻撃をすることなく宴会などをしながら財力を見せつける作戦に出ました。おまけに数日で城を作り出しそれを見た北条家は戦力差を見せつけられ3か月の包囲の末に降伏したのです。
これにより、ついに秀吉の天下統一が成し遂げられたのです!
13.朝鮮出兵 1592~93年 1597年~98年
日本を統一した秀吉が次に目に着けたのは朝鮮半島でした。
二度にわたって攻め込みますが、秀吉が途中で亡くなったことにより最終的に日本軍は日本へ引き返し朝鮮出兵は中断されます。
14.関ヶ原の戦い 1600年
秀吉がなくなり家康はチャンスと見るや豊臣家に代わり天下人になるべく身を乗り出します。
様々な準備の末ついに豊臣家の石田三成率いる西軍と家康率いる東軍が1600年に激突します。勝利した方が天下人!
そんな中で、家康は数多くの経験を活かし、戦いに勝利しました!
石田三成は豊臣家の家臣に過ぎない上に、戦経験もほとんどなかったことから総大将による差が勝敗分けたといっても過言ではないでしょう。
※正式には西軍の総大将は石田三成ではありませんが、指揮していたのは石田三成となります。
15.大阪の陣 1614~1615年
最後の主な戦いは大阪の陣です。
関ヶ原の戦いで豊臣家の力は大きくそがれたものの、家康にとってはまだまだ厄介な存在でした。
そのため家康はいちゃもんをつけ無理やり豊臣家との戦いに持ち込みます。
こうして家康は大阪城にて豊臣家との最終決戦に挑みます。
大阪の陣は2度にわたり行われ、一度目は1614年の冬。
豊臣方は兵力では家康に劣りましたが真田幸村などの武将により見事攻撃を耐え凌いだのです。
2度目は1615年の夏。
家康は勝つために大阪城の堀をすべて埋めてしまい城の防御力を0にする策略を謀ります。
兵力差で圧倒的に不利だった豊臣家でしたが真田幸村の勢いはすさまじく大軍を前に奮闘します!
しかしついに幸村が力尽きてからは形勢は一気に家康に向き、豊臣家は滅ぶ結果となったのです。
戦国時代の主な戦いまとめ
以上、戦国時代の戦いについてでした。
かなりざっくりの紹介だったためわかりにくかったところやもう少し詳しく知りたいな~と思ったかもしれません。
そんな方はこちらのサイトで戦国時代の戦が詳しくまとめられていますのでぜひご覧になってみてくださいね↓